響け、魔法の残響よ

 軋みを上げるベッドの音がやけに生々しく感じられた。それなりにスプリングの効いたベッドでも、二人分の重みには唸り声を上げる。これから行われることを、示唆するかの様に。

 魔力。それはサーヴァントが存在を現世に維持する為には必要不可欠な物だ。如何に強力なサーヴァントと言えど、魔力が断たれたならばたちどころに霧散してしまうだろう。
 彼女の魔術に対する知識はお世辞にも多いとは言えない。彼女自身それは自覚していた。だが 『白い女』から教えられたことと、他ならぬセイバーに教えられたこと。それによりアヤカも最低限サーヴァントにとって魔力の何たるかは心得ているつもりではあった。
 マスターとサーヴァントは契約を結び、パスと呼ばれる繋がりを作り、そこから魔力を供給する。言わばマスターとは聖杯からの魔力をサーヴァントへと受け渡すパイプの様な役割も担っている存在と言っても間違いではないだろう。
(私はマスターなんかじゃない。聖杯なんて要らない)
 それでも、身体に刻みつけられた偽りの令呪の存在を忘れることは叶わなかった。

          ◇◆◇

「アヤカ! あそこで売られている物は何だ? 蜂蜜の様に、いやそれ以上に甘い香りだ」
「あれ? あれは……クレープだ。胸焼けするくらい甘いよ」
 スノーフィールドの中でも賑やかな大通り。人々のざわめきが街の素朴な華やかさを主張する。此処では様々な食べ物が屋台の様な形式で売られており、カフェやレストランも数多く建ち並んでいる区画である。
 そんな中、ある屋台の前で紅の双眸を輝かせ、派手な金髪を後ろで細く編み上げた男──セイバーと云う独特の呼称で呼ばれる彼がはしゃいでいる。それに答えるのは同じく金髪の、眼鏡をかけた東洋人の女性──アヤカ・サジョウだ。些か童顔の彼女は少女とも形容出来る風貌であるかも知れない。
「クレープ、そうか。美味そうだ」
「……それは食べたいって催促?」
「アヤカもそろそろ腹が減っただろう?」
 時刻は太陽がちょうど中天に差し掛かる頃。少々早めである気もしたが、腹ごしらえをするべき時間には違いなかった。
 眼鏡の奥の瞳が呆れに染まる。
「分かったよ。味は勝手にあんたが決めて」
「味と言われてもな……俺には何がどの味だかさっぱりだ!」
 にこにこと屋台の中で愛想よく笑う店員より少し離れた場所で、セイバーはボードにチョークで書かれた乱雑なメニュー表とにらみ合っている。一通り眺めてふむ、と頷くとセイバーは店員に声をかけた。
「このバナナとホイップクリームにたっぷりチョコレートソースがけを一つ頼む!」
「甘っ!」
 アヤカが声を上げたのも無理はない。聞くだけで胸焼けがする様な代物だ。しかもたっぷりと来た。店の前に漂う甘い香りだけでお腹いっぱいになりそうなのに、更に甘い物を舌と胃にぶつけるつもりなのだ、この男は。
「なんだい、彼女とデートか色男? ホイップクリームもサービスしてやろう!」
「それは有り難いな。 ホイップクリームとやらがどんな物かはイマイチ分からないが、ありがとう」
「は? 別に彼女でもデートでもないし……と言うかこれ以上甘い物を上乗せするのは、ってちょっと!」
 時すでに遅し。サービス精神旺盛な店員により、甘さをてんこ盛りにしたクレープが既にセイバーの手には握られていた。アヤカは溜息を吐きながら代金を支払う。
 良い一日を、だの何だのと言われながら屋台の前を離れ、近くのベンチに二人で並んで腰掛ける。休憩スペースとして作られたのであろうその場所でセイバーがクレープをかじっている。目の前に誂えられた小ぶりな噴水の周りでは、親たちに見守られながら幼児が四、五人ほど遊び回っていた。
「あんた、それ……食べられるの? 吐かない……?」
「吐く? こんなにも美味いのに。いやあ、中々にこの甘さは癖になる!」
 アヤカには信じられなかった。信じられなかったが、いやいや、と思考を切り替える。
 もしかしたら彼の生きた時代では甘い物は高級品だったのかも知れない。江戸時代くらいまでの日本では砂糖は高級品だった、みたいな感じで。
(世界史なんてさっぱりだけど)
 そこまで考えて、余りにもくだらない思考を放棄した。はあ、と息を吐き出して背凭れに体重を預けると、ふと隣からの視線に気が付く。
「……何?」
「アヤカも食べないか。俺だけで全て食べてしまうのでは味気ない。それにさっきも言ったが、アヤカもそろそろ腹が減る頃だろう?」
「えー……」
 ずい、と鼻先に差し出されたクレープはソバ粉を使った物だ。大きめに切られたバナナに、たっぷりを行き過ぎるほどにかけられたチョコレートソース。トドメとばかりに真っ白なホイップクリームがクレープの真ん中に鎮座している。見た目だけならまあ、美味しそうではあった。……ばっちりくっきり、セイバーの歯型の形に切り取られた跡がある食べかけではあったけれども。
 諦めて素直にクレープへとかぶりつく。瞳を閉じて味わえば、予想した通り──いやそれ以上の甘さがアヤカの舌を蹂躙した。うっ、と思わず胸を押さえて俯く。
「うあっ……もうお腹いっぱい。もう大丈夫。後はあんたが全部食べて」
「そうか。アヤカは控えめだな」
 控えめとかそういう問題でもない、と抗議すべく顔を上げると柔らかくたわむ紅玉の瞳と視線がかち合った。
「どうだ? 美味かったか?」
「……そう、だね」
 ぎゅっと胸元を押さえたまま、アヤカは視線を逸らす。甘さによる胸焼けとはまた違った疼痛が、胸元に響いた気がした。

「ああ……何。まだ、大丈夫さ」
 セイバーの口から溢れた囁きを拾う者は、姿なき友のみ。

          ◇◆◇

「あんた、よく食べるね。実は大食いなの?」
 定期的に転々としながら泊まっている宿のうちの、一つ。安っぽいベッドを椅子代わりに腰掛けての一言。
 何時からかは分からない。だが最近になって、セイバーは露骨に飲食を好む様になったとアヤカは感じている。外に出向けばあれは何だ、何という食べ物だ、美味いのかそうでないか、とアヤカに問うてくる。尤も、彼が食べる物自体は大衆向けの安い品物だ。アヤカの金銭事情に響く様な事もない。ただ単純に、アヤカは疑問に思ったのだ。
「サーヴァントは食事も睡眠も要らない……そうじゃないの」
「アヤカの言う通りだ。サーヴァントは魔力を元に身体を得て活動しているとは言え、その本質は霊的な物。肉体は飽くまで仮初めの物に過ぎない。だけど、何も"食べるのが嫌いだ"とは一言も言っていないぞ?」
「ただの言葉遊びだよ、それ」
 呆れたアヤカに、セイバーは誤魔化そうとでもしたのかキザにウィンクを飛ばして来た。都合が悪くなるとどうにか話を逸らそうとする彼のやり方はもう知っている。
「まあ、良いけどね。いっぱい食べても」
 すごく美味しそうに食べるし、とは言わない。大抵は外で食事を摂る二人だが、時たまこうして泊まった宿でアヤカが食事を作ると、セイバーはそれをとても嬉しそうに食べる。アヤカの料理の腕はごくごく普通だ。一人で暮らしていた期間が長いからまあそれなりではあるかと自負しているけれど、それだけだ。
 それでも、セイバーはアヤカの料理をまるで高級料理のフルコースであるかの様に美味しい美味しいと食べるのだ。作り手としてそれは悪い気はしないし、嬉しいと感じるものだろう。決して本人に告げはしないものの。
「晩ご飯、魚で良いよね」
「ああ、もちろん。だがアレも付けてくれると嬉しいな。アヤカが以前朝食の時に以前作ってくれた、少し塩気のあるスープの……」
「……味噌汁?」
「そう、味噌汁だ! アレももう一度作って欲しいな。最初はこんな味のスープもあるのかと驚いたが、アレもまた癖になる味だ。何回も飲みたくなる」
 彼の純粋さと罪作りは紙一重だ。アヤカは眼鏡のズレを直すフリをして、少し視線を真横にずらす。
「いいよ。また作ってあげる」

          ◇◆◇

「さてと。さっさと買ってしまおう」
 宿によく置いてある、ペラペラのメモ用紙を片手にアヤカはスーパーへと向かう。それらしくアメリカ人風に言うとグローサリーストアと言う奴だ。
 最初は宿の目の前にあるショップで水でも買うだけにしようと思っていたから、セイバーは置いて来た。付いて来ようとする彼をすぐに戻るからと押し留めて来たので、あまり放置するとマズイだろうなとは思いつつも、アヤカは宿から少し離れた場所にあるスーパーの前に立っている。
 財布もあって、買い物リストも財布に入れてある。それなら外に出るついでに夕飯の買い物も済ませた方が効率的だ。ミネラルウォーターのボトルを購入しながら弾き出した結論である。十分ほどで戻れるだろうと算段をつけて、アヤカはスーパーと言う名の主婦たちの激戦区へと足を踏み入れた。
 いざ行かん、食料調達へ。

         ◇◆◇

 ざわめきの遠さに、ハッとした。
 スーパーからの帰り道。二人分の食料を詰め込んだ買い物袋を手に提げて、来た道を戻っていたはずだった。
「おかしいな……迷子にでもなっ、た?」
 語尾が不自然に跳ねた。いつの間にいたのだろう。目の前には、異様な出で立ちの女。
(でも、確か何処かで……ああ、そうだ)
 セイバーと出会ったあの時。独房から脱出し、死徒だか吸血鬼だかという何かがいると言われたあの時の女にそっくりな出で立ちの女性が目の前にいた。思い当たった瞬間、アヤカの背筋が凍りつく。
「なっ……何? また何かがあったの……?」
 淡々と女は告げる。
「封印指定の魔術師がスノーフィールドに入り込みました。聖堂教会よりお伝えすべき事は以上です」
「封印、指定……?」
 聞いた事もない言葉だった。真っ当な魔術師なら知っていて当然の言葉だったが、魔術の知識が薄いアヤカには理解出来るはずもない。ただ、聖杯戦争において中立の立場を保つ聖堂教会の人間が再び干渉して来たという事実。それが、アヤカにこれ以上ない危機感を抱かせる。
 そして思い出す。異様な光景。命を懸けて聖杯を求め殺し合う戦争と言う名の儀式。明確な死への恐怖──。

「アヤカ!」
 ぱちん、と泡がはじける様な音が聞こえた気がした。それは錯覚なのだろうが、そう思わずにはいられなかった。
 何があったのか。気がつけばアヤカは、通りの端でセイバーに肩を抱かれていた。
「あれ、私……」
「道の真ん中で立っていた。危うくあの鉄の……そう、車に轢かれる所だったぞ」
 どうやら道の端へと引き寄せて庇ってくれたらしかった。気遣わしげな赤の瞳がアヤカを覗き込む。
「戻るぞ、アヤカ。腹が減りすぎて君を探してしまった。俺は腹ぺこなんだ! 君の作る料理が食べられるのはまだかまだかと俺の口と胃袋が待っている!」
 肩から手を離すと、セイバーはさっとアヤカの持っていた買い物袋を取り上げる。冗談めかした言葉はアヤカを少しでも元気づけようとするための物だと知っている。
「……そうだね。あんた、食べるの大好きだもんね」
「よく分かっているじゃないか。さあ、早く戻ろう。俺のためにとびきりの料理を作ってくれないか」
「別に普通の料理だけど。……ありがとう」
 彼は歯を見せて笑っただけだった。

          ◇◆◇

 何を間違ったのだろう。アヤカには分からなかった。ただ、直感する。これは自らの命に関わる重大な出来事だと。
 闇が、口を開けていた。アヤカと言う餌を捕食しようと心躍らせている。
 どうすれば良かったのだろう?
「ごめん……ごめん、ね」
 呟いた言葉は何だったろうか。アヤカ自身にすら、もう分からない。


          ◇◆◇

「ああ、アヤカの料理は美味い。この味付けは俺好みだ。好みに過ぎる!」
「……ねえ。常々思ってたけど、なんでそんなに日本人舌なの? あんた。味噌汁が飲みたいとか……見た目は完全にヨーロッパ人なのに」
「舌だと? 何を気にしているのかは知らないが、俺の舌とアヤカの料理の腕に重要な関連性はあると思うのか?」
「……知らない」
「そうか。なら教えよう。実はな……」
「……実は?」
 もったいぶった言葉にアヤカが視線をセイバーの瞳へと向ける。そこには、悪戯っぽい光の宿った双眸。
「俺も分からん!」
 あっけらかんと言い放つ。からりと笑う姿には溜息も出なかった。
「しょうもない」
「おっと、辛口な評価だな? だがこの魚は甘くて美味しい」
「……そう」
 安宿のガタついたテーブルで、向かい合っての食事。並んだ料理は素朴な物だ。焼き魚であったり、味噌汁であったり、ちょっと味気ないくらいの白米であったり。そのついでに味噌を消費するための野菜と豚味噌の炒め物も添えて。スノーフィールドで手に入る食材で日本食っぽい家庭料理を作った結果が今晩の夕食だった。
 その晩、セイバーはいつも以上に饒舌だった。そうでなくとも普段から饒舌だと言うのに。そこにはとても分かりやすい、少々露骨に過ぎるほどの気遣いが見え隠れしていた。
 どうしてそこまでしてくれるのだろう、とアヤカはぼんやり思う。彼の行動原理がさっぱり分からなかった。アヤカが自覚していないだけで、セイバーにはアヤカが慰めを必要とするほどに酷い顔をしている様に見えたのだろうか。
(なんで、あんたはこんなに優しいの)
 心の中でどう問いかけたとしても、答えは返らない。
 我ながら少し行儀が悪いかな、とは思いながらもアヤカはドラッグストアで手に入るちゃちなプラスチックのフォークを置くと、頬杖をついてセイバーが食事を平らげる様子を眺める。やはり先ほどの事が尾を引いているのか。どうにもこれ以上の食欲は湧かなかった。
「食べないのか? まだ魚が半分以上残っているぞ」
「いい。もうお腹いっぱいだから。あんたが食べて。……食べ残しで悪いけど。嫌なら捨て」
「食べる」
 アヤカの言葉尻を食って見せたついでに、魚もぺろりと残さず綺麗に食べた。存外に器用なナイフとフォーク捌きで口元にどんどんと食べ物が消えて行く様はいっそ見ていて気持ちが良い。
「美味かった! この味を知らなかった頃の俺には最早戻れないな。嗚呼、生前の俺は一体何を食っていたんだ? 泥水か? 木の根っこか? それとも道端の石っころか?」
「……断食したら飢えて死にそうだな、この人」
「うん? どうしたアヤカ」
「何でもない」

 自分の分とセイバーの分の食器を回収し、アヤカはシンクとはとても言えない様な流し台(洗面台と言う方が適切かも知れない)に全て突っ込む。とは言え使用した物は全てプラスチック製のカトラリーだ。荷物にするくらいなら、そのまま捨てても良い代物である。
(今日、聖堂教会……から伝えられた事。封印指定、とか言ってた。それもあの吸血鬼、みたいな物なんだろうか)
 悩もうにも、アヤカではさっぱり判断がつかない。ただ、何かしらの脅威である事には間違いがなさそうだとは分かる。さてどうするべきか。アヤカはちらりと背後のテーブルに視線を向けた。
(……難しい顔だ)
 黄色がかった安っぽいライトに照らされて、陰になった俯き加減の表情は読み取りにくい。声はよく聞き取れなかったが、唇が動いている事からきっと"座から転写させた同行者"とやらと言葉を交わしているのだろう。
(後で、伝えよう。今は……なんか、深刻そうな顔してるし)

 後に伝えて、封印指定の事を知っているか訊いてみよう──結局の所、今晩のうちに伝える機会を逃したアヤカは、この時の自分の判断は誤っていたと気付く事になる。
 ほんの少し先の未来で。

          ◇◆◇

「……寝てるのかな、これ?」
 微妙にスプリングが効いている気がしなくもないベッドに男女が二人。とは言え特に色気のある展開があった訳でもなく、その日の朝が訪れた。
 アヤカはベッドから起き上がると、隣で眠る金髪の男を見る。赤毛混じりの金髪を枕にぶちまけて、ぐっすりと寝入っている男を。
「寝てる。……サーヴァントって何なんだ、本当に」
 パジャマとかいるかな、とボヤきながらアヤカは身支度を済ませる。荷物も既に昨晩片付けたし、そもそも彼女の手荷物は多くない。
「よし。先にチェックアウト、しとこうかな」
 財布と鍵を手にフロントへ。もしも起きた時のために、とセイバーには書き置きを残しておく。
「お金払うだけだから、すぐに戻ってくるけど……なんか腹立つくらいに気持ち良さそうだし、もうちょっとくらい寝てて良いから。……聞いてないだろうけど」
 寝ているのを良い事に、アヤカはセイバーに語りかける。何時だって快活に笑い、型破りな性格と行動でアヤカを引っ掻き回す彼には、これでも感謝をしているのだ。
「まあ……おやすみ」
 これまたガタつくドアを閉めて、部屋を出る。基本料金とタックス、それからチップを渡せばそれで良い。

『魔力を隠しもしない、お馬鹿な娘がいて良かったよ』

「え──……」

 不快な音。昏い、闇の底。
 それが突如にして彼女を包み込んだ全て。

「ごめん……ごめん、ね」

 呟いた言葉は届かずに、消えたのか。

「……アヤカ?」

 希望を繋いだのか。

            ◇◆◇

「アヤカ……生きていてくれ、アヤカ……!」
 零れ落ちるのは、祈りの言葉にも満たない願い。
 その身一つで、友の力を時に借りながら。男は幾つガラクタ人形を屠っただろう?
 そして、また一つそれは現れる。
「またゴーレムか? ……違う? 次は何が──ッ!」
 圧倒的な、威圧感。玩具は虚ろなる意志を以って彼を阻む。
 セイバーの前に立ちはだかるのは、苔むした重厚な鎧に身を包んだ騎士だった。兜から覗く瞳は昏く、コレは人ではない何かなのだと直感する。ぎらつく刃は、鈍い光を放ち、セイバーの命を刈り取ろうと揺らめいた。
「此奴は──!」
 振り下ろされる刃。霊核ごと破壊せんとする嵐の様な太刀筋が、セイバーの首を掻き切る為に襲いかかる。
「ッ……くそ!」
 鋭く舌を打つ。形振り構っている場合ではない。セイバーは地を蹴り、騎士の懐へと迷う事なく飛び込んだ。まずは一撃、その胴へと右ストレートを食らわせる。
「ぐっ……硬いにも程がある!」
 ぐらついた隙に足払いを仕掛け、さらに追い討ちをかける。此処で手間取る訳にはいかない。このイングランド王、勇猛果敢なる獅子心王と名高きリチャード一世が!
「もう一撃!」
 セイバーが騎士の身体に強烈な蹴りを食らわせたのと、騎士の頭が吹き飛んだのは同時だった。
「ハッ、流石の腕だ。感謝する!」
 ただ一度放たれた必殺の毒矢。影より付き従う友人に感謝を告げ、セイバーは走る。先ほどの騎士の剣を奪い取り、柄を握り締めたままに。
 彼は風の様に駆ける。たったひとりをこの手に取り戻すために。

 空洞の様な部屋。いや、部屋と形容するには些か大きすぎる。ホールと言う方がまだしっくり来る様な広さだ。言うなれば、大樹の洞。その場所は、広大でありながら木々の密集する、異様な光景を有していた。
「ふむ。また大層な場所に来てしまったな」
 踏み締めた地面は床ではなく、何かしらの植物に覆い隠されている。薄暗さに判別はつかないが、芝生の様なごく一般的な草花とは言えないであろう事はセイバーにも理解出来た。
 それはある人物の魔術が作り上げた、まさしく生きた永久機関の部屋だ。薄暗い部屋の中に隙間なく張り巡らされた木の根の一つ一つが封印指定並みの魔術の産物である。
 魔法の域に片足を踏み入れた大魔術のもたらした物が、此処にある。

 ──役者は、揃った。
「ようこそ、ついに来たか! 騎士様のお出ましだ! さあさ、私は君を歓迎しようとも。ほうらお嬢さん、君の騎士がお迎えに来たよ。ああ、騎士ではなくて王子様かなあ?」
 男だった。妙に甲高い、嫌な余韻を残す声が耳奥に反響する。男は引きずるほどに長いローブ状の衣服を纏っていてもよく分かるほどにでっぷりと肉を蓄えた身体をしていた。木の根で出来た椅子を玉座の様にしてふんぞり返り、座っている。
「ほら、君の愛しのお姫様はここだよ王子様。どうだい? 綺麗だろう」
 指差す先には木製の檻。これもまた木の根が幾重にも重なり、張り巡らされている。まるで厳重に過ぎる小鳥の籠をそのまま大きくしたかの様だ。
「アヤカ!」
「き、こえてる……!」
 返る声の強さは、囀りには程遠い。
 セイバーは目を細める。同時に理解する。アヤカは間違いなく此処にいる。独房よりも随分と趣味の悪い牢の中に閉じ込められているのだと。
「成る程、これは立派だ。俺は魔術師ではないからその素晴らしさを十全には解せないのが惜しい。それから王子よりも騎士を希望しよう。何せ俺は我が祖国の偉大なりしアーサー・ペンドラゴンと王に仕えし円卓の騎士物語が大好きだからな!」
 口では飄々とした台詞を喋りながら、対するセイバーは油断なく剣を構える。一見丸腰に見えても相手は封印指定を受けてなお聖堂教会の追っ手から逃げおおせて見せる魔術師だ。気を抜けば幾らサーヴァントと言えど危ういだろう。
「単刀直入に言う。アヤカを返せ」
「君の態度次第かな?」
 ぎらついた目が値踏みをする様にセイバーの頭の天辺から爪先までをじろりと見た。
「態度! 態度か。賊の台詞だな。ならば訊こうとも──何を望んでわざわざアヤカを攫った?」
「聖杯だよ」
 実に端的で分かりやすい言葉だった。この肥えたなめくじの様な男は、聖杯を欲しがっている。
「聖杯を求める。それは分かった。ならば何故アヤカを攫った? 攫わずに殺して令呪を奪い取る事も出来たはずだ。まさか考えつかなかった訳ではないだろう?」
「出来れば穏便に済ませたくてね。聖堂教会の監督役ならまだしも、私はただの魔術師。魔術刻印ほどでないにしろ、令呪の移植は些か難しい」
 令呪とは、召喚術に長けたある一族の男が生み出した至高の存在。それを弄る事は封印指定を受けた者ですら難易度の高い行為であった、らしい。
 らしい、と言うのは魔術師ではないセイバーではせいぜい憶測でしか語れないがゆえだ。おまけにアヤカの持つ令呪の様な術式を施したタトゥーは詳細不明ながら些か特殊な物である事も考えると、その言葉の真偽を推し量る事は難しい。
「さあ、どうだい? このお嬢さんは魔術師としては零細も良い所だ。事実、辛いだろう? 君の虚勢は何処まで持つかな?」
「何の話……!」
 木の檻の壁越しにアヤカが声を振り絞る。恐怖に震えてはいても、その声に諦めの色はなかった。

          ◇◆◇

「聖杯に縋るほど困窮した魔術師に脅された所でな。零細はそちらだろうに。封印指定とやらを受ける程に魔術を極めておきながら……呪いでもかけられたか」
 柄を握り締める。これ以上言葉を交わし合い、交渉をするつもりも最早セイバーにはなかった。魔術師の領地とも言える工房内で長期戦を仕掛けるのは無謀だ。
 男は嗤う。それはハッタリだろうか。或いは、自棄なのだろうか。
「宝具を此処で使うのか? お前の魔力はもうゼロに等しいと言うのに!」
「え……?」
 愕然とした。セイバーの魔力が底を尽きかけている。男はそう言ったのだ。アヤカは狼狽する。そんな話、聞いた事も感じた事もなかった。正規の魔術師とは言えないアヤカには分からなかったのだ。セイバーの態度から異変を感じ取る事も出来なかった。
 尤も、それは当然とも言えただろう。苛烈な生を歩んだ男は、隠し通す事が上手いに違いない。少なくとも二十かそこらを生きただけのアヤカよりもずっと。
「宝具を使えばお前は消える、セイバーのサーヴァント!」
「それが何だ? 俺は姑息な魔術師相手に下るつもりは毛頭ない」
 鈍色の剣が、淡い光を放つ。大気に満ちるマナが、渦を巻いて彼の周りを取り囲む。
「……だめ、だ」
 喉が張り付く。声は掠れていた。例え薄暗い檻の中であっても、その光の有り様はよく分かる。
 仄かな熱を伴って、令呪を模した紋様がアヤカの肌を焼く。

「永久に遠き────」

 それは、神秘がまだ人の手に在った頃。花々が咲き乱れ、妖精が謳い、愛と祝福に満ちた彼の国が神話の残り香を密やかに紡いでいた頃。
 彼の騎士は光を束ねし者。星の内海にて鍛えられた、聖剣を携えし者。
 魔力の奔流。剣を彩るのは輝かしき星の光。人々の希望を具現化した光の斬撃。
 決して手に収める事は叶わぬ永久の輝き。
 そして、彼の魔力そのもの。

「やめて……! やめて、セイバー!」

「勝利の剣────!」

 偽りの令呪は応えない。青年王が踏み留まる事はない。魔術師は星の光に身を焼かれるのみ。

「愚かな男だ……貴様は聖杯を棄て、女を取るのか」
「愚かはどちらだ。俺がアヤカと聖杯を同じ天秤にかけていると思ったか」
「は、は、は」
 ──それを愚かだと云うのに──……
 嘲りを以て幽鬼の如く響く声は、砕け落ちた樹々の檻と共に気配を消した。

 悪趣味な木の檻は、奇しくもアヤカの身を剣の極光から守護する役目を果たした。すっかりと強度を失った檻を蹴り倒し、どうにか力づくで脱するとアヤカは一目散に駆ける。
「ッ──!」
 酷い姿だ。声もなく、アヤカはそれを知る。
 彼女の傍に居続けたサーヴァントは、剣を杖にして何とか立ち続けている有様だった。だがそれも耐え切れず、彼は遂に膝を折り息を吐く。
「うそ、嘘でしょう、そんな。魔力が、全然ないって……!」
「ああ……無事か、アヤカ。無事なら、よかった」
「良くない! あんたが……こんな、事になって……」
 アヤカもまた膝をつく。視界は滲んで、何も映ってなどいなかった。ぼやけた闇が彼女の瞳を、心を包んでいた。
「どうして、泣く」
「泣いてなんか……泣いてなんか、いない! 全然、少しも……っく、泣くに決まってるでしょう馬鹿ッ!」
「言っている事が違うぞ、アヤカ……」
「煩いな! もう黙ってじっとしてて、何も言わないで! 立つのも辛い癖にっ」
 震えるアヤカを嗜めようとしたのか。セイバーは柔らかくゆっくりと、言い聞かせる様に言葉を口にする。それがアヤカには耐えられなかった。
「大丈夫だ。暫く動かずにいれば、多少は……まあ、どうにかなる。幸い此処は……魔術師の工房で、大気には……マナが満ちている、からな」
 マナが満ちている、などと言われてもアヤカにはそれが真実かどうかは判断出来ない。彼女の中の魔術知識は『白い女』とセイバーに与えられた物しかないのだ。もしセイバーがそれらしく嘘を吐いて見せれば、アヤカに看破する事は不可能だ。
 震える手でセイバーの身体をかき抱く。何処までも冷たい鎧の感触が、冷ややかな"死"を連想させ、アヤカに焦燥感をもたらす。
「ねえ、どうしたら良い? どうしたら私はあんたを助けられる!?」
「アヤカ。君が気に病む事は何もないぞ? 意外と魔力はどうにかなる物なんだ……食事をしたり、睡眠を摂ったり、な」
「……あの男は言ってた。私からあんたへ魔力が供給されていないって」
 セイバーの頬がひくりと引き攣った。アヤカは確信する。彼は重大な事実、或いは核心的な何かを隠している。
「……戻るぞ、アヤカ。あの男もそう簡単に滅びはしまい。何時までも此処には……残っていられないからな」
 人の死を受け止めるのは、見捨てるのは、もう懲りた──そう、叫ぶ自身を彼女は心の何処かで知っていたのかも知れない。
 気付けば彼女は悲鳴の様に、問うていた。
「質問に答えて。どうしたら私は、あんたを助けられるのかを!」

 彼女は忘れないだろう。そう問うた瞬間の彼の表情が、何処か虚めいていた事を。

          ◇◆◇

「サーヴァントは……聖杯からのバックアップを受け、マスターから魔力の供給を受ける。パスと呼ばれる魔力の道を繋ぎ、現界する……」

 どうやって戻って来たのかも思い出せなかった。あの安宿のベッドの上で、二人は向かい合っている。
 アヤカは分からなかった。どうすれば良いのか。セイバーを救う方法は存在するのか。どうして、セイバーがあんな表情をしたのか──。
 何も分からない自身がもどかしく、情けなかった。唇を噛み締め、彼女は自身を責め立てる。
「アヤカ。聞いてくれ。俺は……君に酷い選択をさせる事になる。今からする話をよく聞いて、君が判断するんだ。俺はアヤカの選んだ答えに従おう。……全く、また後先考えず先走ってしまったな……」
 は、と笑おうとしたのだろう。だが漏れたのは笑いにも満たない吐息だけだ。
「聞かせて。判断も何も、聞かなきゃ始まらないんだ」
「……ああ」
 一度逡巡するかの様に目を伏せ、セイバーは再び視線を上げる。紅玉の瞳を見据え、アヤカは告げられる"選択肢"とそれを選び取る覚悟を決めた。
「……俺と君の魔力の道が、途切れかけている……と言えば良いのだろうな。完全に切れた訳じゃない。だが急激に魔力を消費すれば現界に支障をきたす。今がそれだ」
 顔を歪めたアヤカの頭にセイバーはポンと手のひらをのせる。
「んー……まあ、アレは仕方なかった。気にするな」
「……それで、どうすれば良いのかまだ聞いてない」
「ああ、そうだったな」
 アヤカは俯き、スカートの布地を握り締める。触れた手のひらから感じられる体温は明らかに低かった。
「道が切れかけたなら繋ぎ直せば良い。要はそれだけの話だが……これがまた難儀なんだ。説明すると長くなるが、魔術師の体液には魔力が含まれていて……」
「簡潔で良い。どういう事なの」
「……性行為をすれば良い。それだけだ」
 そう、それだけだ。だが、その選択肢はアヤカに求めるにはあまりにも重過ぎる。セイバーはそれを理解していたし、選択肢を聞かせられたアヤカもまた身を強張らせた。
「はは、まあそういう事だ。このまま数時間もすれば俺は消えるだろうが……その前に聖堂教会の監督役の元へ行け、アヤカ。それで君はひとまず聖杯戦争と言う重荷からは解放される。俺も心底から聖杯を欲していた訳でもなし。座に多くの音楽を持ち帰る事が出来なかったのは少し残念だったが……まあ、そのうちまた機会が巡って来れば良いな?」
「分かったよ」
「……そうか」
 セイバーはアヤカの頭からそっと手を離す。座に還る事は仕方がないが、この仮初めのマスターと別れるのは少々惜しい事だ、と思う。
 アヤカと過ごした時間はほんの僅かな時でしかなかったが、セイバーにとっては驚きと楽しみの連続だったのだ。
 記憶は残らない。けれど、記録は遺る。この感情を置いて行くのは惜しむべき事ではあったけれど、悪い事だとは思わなかった。
「なら、早めに出よう。俺も幾らか動ける程度には……」
「分かった。あんたとセックス、したら……したら、全部解決するって事、が……!」
「は……アヤ、」
 世界が廻る。感じるのは、ひとり分の重み。
 アヤカのくしゃくしゃに歪んだ顔が目の前にある。セイバーの頬に一粒、温かな雫が落ちた。
「いいよ。あんたが言った事、全部信じる。だから……」
 消えないで。

 男は少女の慟哭を聞いた。

          ◇◆◇

「息をするんだ、アヤカ……呼吸を合わせる様に」
「は……し、てる、ちゃんと」
「ああ、そうだな……その調子だ」
 指を絡めて、その頬に唇を落とした。組み敷いた彼女の身体は酷く温かい。魔力の欠乏で思考が霞みつつあるセイバーに、アヤカを優しく抱く余裕はないに等しかった。
 既に身に纏う物は何もない。二人は衣服を取り払い、その素肌を合わせて視線を交わしていた。これから行われる事は儀式であり、真実命を繋ぐ行為だ。
 セイバーは口づけを贈る。その鼻先に。柔らかな額に。金色に染め上げられた前髪に。偽りの令呪が刻まれた肌に。
「く、すぐったい」
「嫌だったか?」
「そう、じゃない……けど」
 恥ずかしいんだ、とアヤカが呟く。羞恥のせいか、視線は合わない。
 セイバーがキスをする度に、うう、と赤子がむずがる様な声が上がる。色気も何もない。けれど、それがアヤカらしいのかも知れなかった。
 そう感じた瞬間、セイバーの胸の内に湧き起こった気持ちはなんと形容すれば良いのだろう?
「アヤカ……アヤカ、アヤカ」
「な、何? ちゃんと聞こえて、ッ」
 唇を、ふさぐ。包み込んで逃さない様に。歯列をなぞり、柔らかな舌をつついて、絡め取って、使い魔としての本能のままに彼女の唾液を飲み下す。彼女の体液を通じて初めて取り込む、アヤカの魔力。
 甘露の様な味わいに、くらりと脳が揺さぶられる──。
「ふっ……んん、むっ、ぅ」
「ッ…ふ……は、ぁ」
 魔力を求めて、貪った。錯覚なのだろうと分かってはいても、彼女の魔力は、その味は甘さを感じてやまない。舌を絡めて、荒々しさを以って彼は蹂躙した。アヤカの拙い息継ぎに、性感が煽られる事をセイバーは自覚した。
 アヤカの唇の隙間に指を挿し入れる。指先で舌を軽く愛撫して、負担をかけないうちに引き抜いた。
「けほっ……ッう、ちょっ、と」
「濡らす物があまりないからな。痛くはしない、つもりだが……自信がない」
 ふ、とアヤカが吐息で笑う。
「あんたでも、思うんだ……自信ない、とか」
「無論あるぞ。今は……アヤカが欲しくて堪らない。俺の自制心には期待してくれるな」
「待っ、……あ、う、っ」
 絡めた指をほどいた。代わりに足首を捕まえて、その両脚を開かせる。あまりにも性急で気遣いが欠片もない事に、セイバーは心中でアヤカに詫びた。
「待てない……待てない、済まないアヤカ……!」
「わか、ったから!」
 セイバーの紅玉の瞳が、アヤカの蒼色の瞳を捉える。
「我慢、しなくて……いいから」
 許しの声は細く震えていた。それでも、柔らかく響いたのだ。それは、砂漠に落とされた一滴の雫の様に。

 キスでは到底足りない。仮初めの肉は枯渇した魔力を欲している。彼女を、欲している。
「良いか、アヤカ……君に、君の中に」
 興奮で呼吸が浅くなっている事をセイバーは自覚する。舌がもつれてしまいそうだった。セイバーの指で、舌で存分に愛撫されたアヤカを食べてしまいたいと、頭の中で叫ぶ本能がある。最早抗い難かった。
 呼吸を合わせ、胸の内をさらけ出し、道を繋がねばならない。肉の身体も、剥き出しの心も蹂躙せねばならない。
「今ならまだ、引き返せる……俺は君を犯す。抱くんじゃない」
「そんな極端な二択出されても、分からないよ。比べられる様な経験、ないし」
 アヤカが顔をしかめる。白い頬は紅潮し、眼鏡を外した瞳は熱に潤んでいた。
「好きにしてよ。好きにするの、得意じゃないの」
「……そうか。そうだな。いつも言われてしまう。お前は極端だと」
「それ、前にも聞いた」
 呆れた様な溜息交じりの言葉の中には、微かに慈しむ様な響きがあった。
 ほんの少しだけ。

「うあっ…い、たい……!」
 内側から引き裂かれる様な痛みが、自らの純潔を踏み荒らされた事をアヤカに知らせる。内臓を抉られる様な痛み。熱を持った圧倒的な質量がアヤカの胎内を蹂躙しようとする。
「痛、ぁ…っ、うぅ」
 誰も受け入れた事のない場所は、侵入者を固く拒絶し、阻もうとした。多少慣らしたとは言えどうしようもない。それでも彼は無理矢理に閉じられた場所を開き、奥へ奥へと彼女を求めた。
「アヤカ、息を……呼吸を、するんだ」
「ひっ、う…く、っ…は、……はっ」
 胸を大きく反らせて破瓜の激痛に喘ぐアヤカの姿は何処までも痛ましかった。
 セイバーはアヤカの額に口づける。少しでも痛みが和らぐ様に。おまじないにも満たない、幼い行為だった。
「なあ、アヤカ。失礼だとは思うが……やっぱり君、これが初め、」
 ガツン、と鈍い音。セイバーの脳裏に星が散った……様な、気がした。
「失礼、だとっ、おもう、なら……訊くなっ、ばか!」
「悪かった……」
 痛む額を押さえてセイバーが呻く。至近距離で額をぶつけ合った代償はアヤカにも降りかかったはずだが、彼女は怒りやら羞恥やらに身を震わせる方に忙しくしていた。
 セイバーはそのままアヤカの華奢な肩口に額をすりつける。犬や猫が主人に甘える様に。さらりと金の髪が混じり合う。境目は最早分からない。
「アヤカ。動いて、良いか?」
「好きにしたら……!」
 つっけんどんな言葉。やっぱり怒っているのだろうか。それとも照れているのだろうか。囁いた耳元にまた一つキスを落として、セイバーは許しをねだる。
「今此処にある君をどうか俺にくれないか、アヤカ」

 キスを繰り返し繰り返し、与える。繰り返し繰り返し、貪る。二人の間に零れ落ちた唾液が糸を引いて切れる。
「痛くない、か……?」
「あんたの方が、痛そうな顔……してるよ」
 図星を突かれたのか、セイバーがむっと唇をへの字に曲げる。
「痛いんじゃない、気持ちいいんだ」
「絶対ウソだ」
「む。嘘ではないんだがなあ」
 そう、嘘と言う訳でもない。正確に言えば、辛い。本能のままに身体を開かせて、荒々しく揺さぶって、自らを苛む欲を吐き出してしまいたいのだ。
 セイバーはアヤカにそんな無体を強いるつもりはない。彼女にそんな浅ましい欲を極力ぶつけたくはなかった。
 こうして彼女を抱いている時点で、どう取り繕っても遅いのだろうけれど。
 薄っすらと自嘲を滲ませてセイバーは微笑んで見せる。
「気持ちいいよ。すごく……ああ、そうだ。気持ちいい。頭がおかしくなりそうなくらいに、な」

「あ……っ、あぁ、う」
 それは嬌声ではなく、啜り泣く声にも聞こえた。
 指を絡め合う。額に、鼻先にキスをする。まるで恋人同士が愛を語り合う光景の様だった。その全ては生きるための措置でしかなかったけれど。
「アヤカ……はっ、あ、アヤカ」
「はあ、ぁ…うあ、ぁ!」
 肌をぶつけ合う乾いた音、欲に濡れた水音、泣き叫ぶ様な声。
(私は、私は何も分からない)
 アヤカ、と呼ぶ声は必死に聞こえた。セイバーの声。アヤカとは何もかもが違う、英雄と謳われる男。
 アヤカは思う。こんなにも強く望まれて、名前を呼ばれる事が今までにあっただろうか。いいや、きっとなかった。
 真実アヤカを求めての物でなく、魔力を欲しての声だと分かってはいた。それでも彼女は考えてしまったのだ。
 絡めた指に力を込める。そうでなければ、どうにかなってしまいそうだった。何かに縋りついていなければ何処かに流されて、アヤカと言う個が消えてしまうのではないかと危惧した。
 そんなはずがないと知っていても。

 全てが白い波に、攫われて行く──……

          ◇◆◇

 見知らぬ場所だった。脳裏に駆け巡る光景は何処なのだろう。乾いた熱砂の国。緑に溢れた魔の国。
 赤毛混じりの金の髪を靡かせて、一人の男が立っている。
(誰?)
 泡沫の夢。

 手を伸ばした。何も分からずに、見知らぬ場所へと放り出されるのが怖かった。掴んでいて欲しかった。身勝手は百も承知で、望んでしまった。
 あの子を見捨てた私だけが、都合よく助けて貰おうだなんて本当に馬鹿げている──。
「セ、イバー」
 どうして私に優しくしてくれるのだろう。どうして助けてくれるのだろう。私にはそんな価値はないのに。
 聖杯が要らないなら、戦う必要はないのに。仮に欲しくなったのなら、私を切り捨てて他の人の所へ行けば良いのに。きっと、彼ならそれが出来るのに。
 燃えさかる焔の様な、獣の瞳。真紅の布を左肩に纏い、真っ直ぐに立つ凛とした背中。音楽を愛し、奏でる柔らかな眼差し。些細な事に喜びを示し、生きて見せるその姿。
 勇猛果敢なる獅子心王。
 彼の本当の名前は何だったろう。いつも、彼は私を呼んでくれるのに。いつか口にした、彼の真名は。
 (ああ、そうだ……彼の、名前は──……)
「リチャー、ド」

 温かな指先が、私の手を掴まえてくれた気がした。



あとがき
 支部より再録。よくある魔力供給ネタ。一度はやっぱり見てみたくなってしまいます!
 書いたのが3巻4巻出た頃……? だった気がするので、今読むと大分解釈違いで苦しいです 笑