『もしもこんな世界があったら』ネタ。聖杯戦争後、セイアヤが二人暮らししている世界線。



「結局、私はこの街へ戻って来た」
 心の端からこぼれた言葉は、ただそこにある事実でしかなかった。
 ほんの僅かに火照る身体を持て余して、私はカーテンを軽く引き、ベランダへと続くガラス戸を開ける。私には大きさの合わない安っぽいゴム製のサンダルを履いて、戸から外に出る。頬を撫でる冷たい風が心地いい。
 陽の光は既に夜に沈んだ後の時間だ。手すりから少し身を乗り出せば、ちらほらと住宅街に灯り始めた明かりが見える。連なる山々に淡くベールを被せるような夕焼けの名残が、視界の端でひっそりと主張していた。
 私のかつての住居は、マンションだった。あの部屋は広かったけど、今はそうじゃない。
──だって、ここはアパートだ。深山町にある、古びた部屋のうちの一つ。
「……同じ街なのに、全然違う景色」
それは当たり前だ。以前住んでいたあのマンションは、新都側だった。こちらとは川を挟んだ向こう側。あの場所へ行くには、この街の真ん中に架かる大橋を渡らなくてはならない。
 そんな事をぼんやりと考えていた時だった。
「アヤカ。君もシャワーを浴びた後だろう? 薄着でいると風邪を引くぞ」
 ガラス戸を開けて、顔を出した青年がひとり。
「冬は上着を着ろと言ったのは君だろう」
「……分かってるよ。でも別に」
「良いと俺は思わないな」
──あの時、冬木で暮らしていた私とは違う点がもう一つある。それは、彼の存在だった。
 一言で説明すれば、彼は私の同居人だ。私より背が高くて、綺麗な金髪で、力もある。そんな人だ。いや、人じゃない。彼は今はもう遠い国の王様で、今もずっとたくさんの人に愛されている英雄だった。
「まあ良いさ。そんな強情な君にプレゼントだ」
 後ろから、肩に何かが掛けられる。見覚えのある紺色のニット。だけどサイズが合わないせいで、そのままずり落ちそうてしまいそうだった。
「プレゼントって。それ、あんたのじゃない。……お節介」
「言ったろう? 俺は君が嫌がっても世話を焼くと!」
「そうだったね……」
 忘れてた、なんて言いながらカーディガンの前をかき合わせる。本当は忘れてなんかいない。あの時の事はいつだって鮮明に思い出せる。
「……ありがとう」
「今夜の君は二割り増しで素直だな。礼を言われると嬉しくなって張り切ってしまうぞ?」
「やめて。って言うか、二割り増しってなんだ」
 この人いつ見ても楽しそうだな……なんて心の中で呟きながら、隣へと並び立った彼に視線を向ける。三つ編みに纏められた彼の髪は夜の闇の中でも輝いて、明かりなんてなくてもよく見えた。
「……あんた、素直なのが好きなの?」
「また唐突だな。だが自分の心に正直なのは良い。己の欲求を満たさずして生きる事ほど、窮屈な事はない。自らの欲に素直なのも過ぎれば他人には毒でしかないだろうが」
 毒、それは彼自身の事なのか。それとも彼の見た誰かの話なのか。分かりはしなかったけど、言葉に込められた苦々しい響きはいばらの棘のように私を刺した。
「セイバー」
 隣の彼の肩に、そっと頭を預けた。男性らしく筋肉質な彼の身体は服越しでも分かるほどに温かい。冷えた夜風は私の髪に触れては去って行く。
「……好きだよ。あんたのその……止めたってちっとも無駄な所。呆れるくらい、自分に素直だ」
 私の言葉は彼にとっては毒だろうか。それとも、別の何かになり得るだろうか。
「ハハ、それは嬉しいな。ありがとうアヤカ。だが驚いた。まさか君にそんな事を言って貰えるとは。もう一度言ってくれないか?」
「言わない」
「残念だ」
 おかしそうに笑う彼の声は、さっきよりもずっと明るく聞こえた。その事に私は安堵する。彼の心の動き、その一つ一つに私は密やかに一喜一憂するようになった。それは何時からのことだったかは、もう思い出せない。
「……全部好きだよ」
──彼と過ごす穏やかな心地の中に。偶にはそんな本音を混ぜて伝えても、きっと悪くない。
「アヤカ……君は」
 風がやみ、音もまたやんだ。空はもう黒に塗りつぶされている。そんな闇の中、地上にも天上にも、小さな明かりが煌めいていた。
「……何?」
「いや……たった今、俺は世にも素晴らしい考えを思いついたのさ。嗚呼、俺は自分で自分を大いに讃えたい!」
 セイバーに寄りかかっていた私は、恐る恐る視線を上げる。声を楽しげに弾ませ、小さな子供のようにキラキラとした瞳をした彼と視線が合った。ああ、途轍もなく嫌な予感がする。
「気になるか? 気になるだろうアヤカ? 聞きたいだろう?」
「いや別に」
「遠慮をする事はない。他ならぬ君には包み隠さずすべてを伝えよう!」
 拒絶のための言葉はあっさりと掻き消された。仕方がないので、黙って続きを聞く。
「単純な話だ。だが、それだけに名案とも言える。或いは俺の引き寄せた天運の賜物だとも言えるだろう。そう、何とも巡り合わせの良い事に明日は神の与えたもうた安息日だ。俺はその事に気がついた。つまり、今夜は君を寝かせなくとも問題がないわけだな」
「……今なんて言った?」
「君を抱くと言った」
「発言が悪化してるじゃない!」
 そんな事を言っているうちに、あれよあれよと横抱きの形に抱え上げられてしまう。力の差は歴然だ。だけどこの狭いベランダで暴れるわけにもいかない。こんな夜に騒ぎを起こすなんて迷惑も良いところだ。
 何とかカーディガンがずり落ちてしまわないように手で押さえて、セイバーの身体に私はしがみついた。
「ちょ、ちょっとちょっと。待って、待てってば! サンダル! まだ脱いでない!」
「うん? ああ、これか」
 セイバーは私の足からサンダルを脱がせると、ぽんぽんとぞんざいに放る。もはや放り捨てている。
「ちゃんと揃えて置いてよ」
「君は案外細かいところを気にするな」
「そういう問題じゃない」
 溜め息をついたって無駄なのはもう知っている。この人は呆れるくらい自分に素直だ。止めたってどうにもならない。
「……明日の朝食はあんた担当ね」
「ああ、無論だ。謹んで承ろう」
「調子いいよね、あんたって……」
「常に自らにとってより良い方へと物事を解釈する。得はあれど損はあるまい。アヤカはそうは思わないか?」
「それが調子いいって言うんだよ」
 そんな言葉を交わしながら部屋へと入り、彼はガラス戸を閉めた。カーテンが外へと広がる景色を覆い隠す瞬間。
 私の心に湧き上がる感情が、そこにはあった。
(明日も私は、ここで暮らすんだ)
 かつてひとりで暮らした街で、また私は暮らして行く。
 今度はふたりで。

あとがき
あなたの書くリチャアヤは、ベランダで互いの好きなところを教えながら嬉しそうに見つめ合っています。「明日もう一度確認しても良い?これが夢じゃないって!」
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