距離

「アヤカは俺の事が嫌いなのだろうか」
 沈んだ声音と共に吐き出された息は、青年に重く色を残した。誰にも認識される事のない友人達に彼は囁きかける。
 夕闇に染まる街の中を駆け回る子供達の笑い声も、物珍しい物が並ぶ華やかな店先のショーウィンドウも、今の彼の心を慰めるにはまだ遠い。
「アヤカは感謝を告げてくれた。彼女は優しい子だ」
 だが、それが俺を嫌っていない理由にはならない。彼女は優しいから、例え嫌いな相手にであっても感謝を伝える事だろう。
 赤毛混じりの金髪を風に遊ばせて、彼は燃え盛るように赤い目を伏せた。
「誰に裏切られても文句は言えない、そんな生き方をしていた俺が、今度は彼女の心を気にしてやまないと言う。滑稽だろう?」
 夜が近づき人気が減りつつある通りにおいて、彼は友へと語りかけ続ける。自嘲を含んだ言葉を受け止める者は青年の目にしか見える事はない。それが他者の目にどう映るかを理解していて、なおかつ恥じる必要など彼にはないのだ。
 ふと、青年が不思議そうな表情を浮かべた。分からないなと一言口にして、首を傾げる。
「む、どうした? まるで馬の尻尾でぞんざいに顔をはたかれたかのような顔をして……ん?」
 はたと言葉が止まる。真っ赤な瞳がとある店先へと視線を留めた。
「……そうか。そうだな。これは……いいな!」
 先ほどまでの憂いを纏った雰囲気はどこへやら、青年は幼い子供のように目を輝かせて意気揚々と店へと足を運ぶ。曇り一つないガラス戸を開け、軽やかなベルの音と共に店内へと足を踏み入れる。
「ああ、君がこの店の主人か? ならばどうか頼まれてくれないだろうか。見繕って欲しい物があるんだ」

       ◇◆◇

 深呼吸をする。大丈夫だ、と言い聞かせる。俺はいつからこんなにも弱くなったのかと自嘲する。
 いや、そうじゃない。俺がこうも心を乱されるのは、彼女だからだ。
 ──理由はまだ分からない。
 背中に隠した重みを意識して、俺は宿の古びて重くなったドアを開いた。
「ただいま、アヤカ」
「あ……おかえりなさい」
 ──そうだ。彼女は優しいから、声を、言葉をかければ応えてくれる。こんな風に。
 胸にわだかまる微妙な何かから目を背ける。椅子代わりにとベッドに腰かけていたのだろう。立ち上がり体ごとこちらを振り向こうとした彼女を言葉で押し留めた。
「ああアヤカ、君はそのまま座っていてくれないか。目も閉じてくれると嬉しいな。もちろん、気になっても振り向くのは無しだぞ?」
「え? なんで?」
「ふふ、それはすぐに分かるさ!」
「ええ……?」
 素直にストンと座り直した彼女は、きっとまだ俺の背後の物には気づいていない。わくわくと胸が高鳴る。彼女は喜んでくれるだろうか。
 ──もしかしたら、一瞬でも笑顔を見せてはくれないだろうか。
 扉をきっちりと閉め、そのまま真っ直ぐに進む。ベッドの端に腰かけて瞼を閉じた、アヤカの正面に立つ。背中に隠した贈り物を彼女の前に差し出した。
「君との出会いに、感謝を込めて。どうか受け取ってくれないか」
 目を閉じたアヤカの元に、甘く柔らかなその芳香はきっとよく届いたことだろう。彼女がそっと瞼を押し開く。眼鏡の奥の真っ青な瞳が驚きに染まる。
「え? 受け取るって──……これ、私に?」
「おっと、一体君以外に誰がいる? 俺の友に贈るには数が足りないだろう? 何せこれは五本の花束なんだ」
「でも……バラの花束って」
 困惑の表情を浮かべるアヤカに言葉を重ねる。それはたった五本の小さな薔薇を重ね、淡いピンク色の包装紙で包んで、彼女の瞳のように青いリボンで束ねた花束だ。だがそこに込めた意味は決して小さくはない。少なくとも、俺にとっては。
「君にとって俺との出会いは決して良いものではないだろう。望まぬ聖杯戦争に巻き込まれたのだから。だが、俺は君と出会えて心から良かったと思っているんだ。これは俺の気持ちだよ」
「それは……。……ありがとう」
 ありがとう、と告げる声は酷く小さい物だった。それでも彼女は俺からの贈り物を受け取ってくれた。その表情は相変わらず硬いものではあったけれども。
「受け取って貰えて良かった。ひょっとして君にとても嫌われてるんじゃないかとヒヤヒヤしていてな!」
 冗談めかして僅かな本心を言葉にする。
「私はあんたが嫌いなんて言ったこと、ない」
「ああ、そうだったな。そこに気づかせてくれるとは、本当に君は優しい」
「別に普通だから」
 ツンとした突き放すような言葉も、赤い薔薇を胸元に抱えた彼女では鋭さが半減する。
 結局のところ、彼女の笑顔は目にする事が出来なかった。だが結果は上々だ。彼女に花束を受け取って貰うという目標は無事に達成したのだから。
「……ねえ」
「うん? どうしたんだ、アヤカ」
「聞いて。……今から言うことが私の本音」
 唐突に落とされた言葉は、はっとする程に真剣味があった。彼女の顔は伏せられている。青い瞳の視線の先は分からない。
 だが、その言葉は真っ直ぐに俺だけに向けられていた。
「あんたのことは……本当に、感謝はしてるんだ。私が生きているのはあんたのお陰だし、恩人なのは私じゃなくて、あんたの方。……嫌いだなんて言ってないよ」
 真紅の薔薇に隠された彼女の表情は見えない。表情は見えなかったけれど、その耳が薔薇のように、或いはそれ以上に赤く染まっていた事を俺は知った。
「……見ないで」
「どうしてだ?」
「恥ずかしいから……」
「俺は君が見たい」
「見なくていい!」
 見るなと言われて我慢が出来るなら、オルフェウスは妻を冥界から連れ帰る事が出来ただろうし、ノアの息子は未来永劫に続く呪いを受けずに済んだ事だろう。国も人種も関係なく、禁を課されると却って気になってしまうのが人間なのだ。
「アヤカ、君は……」
「わ、私が何……?」
「可愛らしいな、と思ってな」
「何それ……」
 彼女の笑顔を見ることは叶わなかったが、代わりに彼女の新たな一面と言葉を知る事が出来たのだ。それはなんて素敵な事だろう?
 理解はしている。アヤカと共に居られるのはきっと僅かな間だけだ。彼女は俺のマスターではなく、俺もまた本当の意味で彼女のサーヴァントとは言えない。もとより彼女と俺は生者と死者なのだ。例え正式な契約を交わした仲であったとしても、別れとは運命にも等しい必然だ。
 それでも俺は、こう言おう。心の底から、伝えよう。
「ああ、君と出会えて本当に良かった!」

あとがき
2016年に書いたようです。懐かしい。